中学受験という選択!多摩境から通学できる中高一貫校

スポーツに打ち込むのは「素晴らしい」のに、なぜ勉強に打ち込むのは「かわいそう」なのか?

小さいことを積み重ねることが
とんでもないところに行く、ただ一つの道だ。
(メジャーリーガー イチロー選手)

本書冒頭で紹介されている、小学校時代のイチロー選手が書いた作文には、将来自身がプロ野球選手になることを夢見て、小学校から努力を積み重ねていることが書いてある。

  • 努力を積み重ね、スポーツで良い結果を出すことは子供らしく良い
  • 勉強ばかりして、希望の学校に行かせるのは、かわいそうだ
  • 一般的にこのような論調や傾向が多く見受けられる。

    中学受験という選択

    私も少なからず、そういった気分を持っていた。しかし、本書を読んでこれまでの「お受験(死語なのだろうか?)」に対するイメージを改めた。
    感動すらおぼえる中学受験のエピソードが掲載されているので本書を引用しながら紹介する。

    「お父さんとお母さんはここで待ってて」

    合格発表には家族3人で足を運んだ。校門で、「お父さんとお母さんはここで待ってて。僕が一人で見に行きたい」と幸司君が言った。「わかった」。夫婦は校門で幸司君を待った。
    幸司君が走ってくる。「受かってた!」幸司君の目から涙がこぼれた。
    (中略)「こんなに勉強させて大丈夫なのかと心配したこともあったが、あの涙を見て、中学受験という経験の意味がやっとわかった」と鈴木さんは言う。そして続ける。「怒られて泣いたり、悔しくて泣いたりということは小学生でもよくあるだろう。しかし、うれしくて泣くという経験がどれだけあるだろうか。うれしいときに流れる涙は、真剣に取り組んだ証拠。それほどまでに真剣になる経験をできたこと。それが中学受験に挑んだ価値だった」

    私自身の経験で恐縮だが、人生において嬉し涙を流した経験は社会人になってからだ。
    ある小売店に在籍していた折、半年前から準備をした店舗のリニューアルオープン。建て替えが完了した時期が切迫していたこともあり、直前の2週間ほどはスタッフに休日もろくに与えられず、私自身も日々の睡眠時間は3時間ほどだった。他の店舗から応援のスタッフも駆け付けてくれ、なんとかこぎつける事ができたオープンセールで、予想以上にお客様が殺到したのだった。そのときは嬉しくもあったが、店内・店外ともに大混乱で対応に忙殺されていた。暫くして、レジに準備していた両替用の小銭が不足した、両替のため入った金庫室で一人っきりになった瞬間、突然涙が自然と溢れ出てきた。その涙は心地良くもあって、緊迫した気持ちを解きほぐしてくれるものだった。
    それから長い時間が経過した今でも、私はその涙を忘れることができない。オープン前の準備で、体力的・精神的に余裕が削られていた部分もあるだろう。しかし、人は自分が苦労した対価としてのみ、嬉し涙も悔し涙も流すことができる。それ以前の私には、嬉し涙を流せるほどの苦労も努力も足りていなかったのだろう。

    中学受験に戻る。賛否あるだろうが小学校高学年から、そのような得がたい経験ができることは、その後の成長に大きく役立つと考えている。

    スランプと「人生の先生」との出会い

    「人生の先生」は算数の担当だった。コーチング的な関わり方で、徹君のモチベーションをみるみる上げた。徹君に「人生のノート」というノートを作らせ、勉強以外の大切なことをそこに書かせた。
    「すばらしい才能に見合う成績にしていこう」
    「能力はまず自分のために使うが、最終的には社会への還元に使うべき。そのための努力を惜しんではいけない。能力のある人には、努力する義務がともなう。がんばれ」

    親以外で自分のためにここまで言ってくれる大人に出会えるだろうか。この子供は中学受験をきっかけに学習塾で「人生の先生」と呼べる人物に出会う。合否は問題ではないようにさえ思える。

    なぜ勉強しなくてはならないのか

    勉強することに特別な理由づけはいらないと思っている。なぜなら、勉強は本能だから。
    (中略)人は勉強せずにはいられない。
    その証拠に、子供のころは勉強嫌いだった人が、大人になって勉強する機会がなくなると、とたんに勉強したくなる。学校に通えないような地域の子どもたちはみんな「勉強したい」「学校に行きたい」と願っている。(中略)勉強が嫌いな子が多いのは、嫌いな勉強ばかり無理やり与えられるから。でも、小さいころから必要な勉強をやっておかなければ、あとからいくら勉強しても身につけられるものには限界が生じてしまう。だから少々面倒くさくても子どものころの勉強はしなければいけない。

    我が家には5匹の金魚がいる。これは夏祭りの金魚すくいをきっかけに、我が家に住み着くことになった。当初はみな2センチくらいとサイズ(体長)が揃っていた。しかし、半年も経つと大きなものと小さなものでは倍ほどに体格差がついてしまった。特に小さな金魚に集中して観察すると餌の食べ方が極端に下手であることが分かった。判官びいきというが、小さくてかわいそうに感じてその金魚が多く食べられるように餌やりを工夫するが。大きな個体は5・6粒、餌を食べられるが、その小さな個体は2・3粒で満足してしまう。そもそもの食べられる量にすでに差がついてしまっている。これでは今からどんなにがんばって餌を食べたとしても大きな個体を見返すような体を手に入れることは不可能なように思えてくる。成長できる時期に十分、成長しておくことが重要だ。あとからその差を逆転することは至難の業であると考えられる。

    受験勉強で「生きる力」が身につく

    一般に言われるように、知識の詰め込み自体に意味はないと私も思う。しかし、目の前に立ちはだかる問題に対して、もてる知識のうちどのような知識をもち出して、どのように活用すれば対処できるのかを瞬時に判断し、行動に移す能力は、ビジネスパーソンに求められる課題発見能力、課題解決能力と同じだ。(中略)たしかに「つるかめ算」だけができたところで、将来何の役にも立たないい。しかし、「この問題はこうすれば、つるかめ算で解くことができる!」と気づき、それを実行する能力は、中学・高校における勉強でも、社会人として仕事をするときでも、大いに役立つだろう。「外角の定理」を知っていたところで、たしかに普段の生活ではあまり使わない。しかし、一見何のヒントもない図形を見せられたとき、そこに描かれていない補助線が見え、問題解決への道筋を見つけるというような能力は、生涯にわたって強力な武器になるのではないか。

    先取り教育というメリット

    中高年一貫校のメリットといえばなんといっても高校受験がないことであろう。(中略)高校受験をしなくていいメリットその1は、先取り学習ができるということ。ほとんどの中高一貫校では中学2年までに中学課程を終えてしまう。高校2年までに高校課程を終え、高校3年次には大学受験対策の演習にたっぷりと時間を使えるというわけだ。

    12歳が18歳を間近に見られる環境

    中学・高校が一緒にあれば、反抗期を乗り越えて、大人としての振る舞いを身につけた高校生の姿を目の当たりにすることができる。「中2・3あたりではちょっといきがってみるものの、高校生になればみんな落ち着いてくるものなのだな」ということが事前にわかる。(中略)やんちゃ盛りの中2・3だって、高校生の先輩たちから指導を受ければ素直に聞く。
    生徒同士の縦の教育力といえるだろう。

    本書を知ったきっかけは「水道橋博士の木曜ウォンテッド」に本書の著者が出演、その内容を紹介してくれたことだ。この番組の中で水道橋博士が最も感心・納得していた箇所がこの章だった。
    中高一貫校には非行がなく、先生も生活指導をする必要がないというのは定説だ。そもそも中学受験をする子供達の資質や素養が一定のレベルにあるため風紀が安定する。というのも一理あるだろう。しかし思春期という、伸びしろの多い成長期に縦の関係が断裂されず、今後の成長の過程を身近に触れる環境にあるというのは大きなアドバンテージとなるだろう。

    多摩境から通学できる中高一貫校

      公立中高一貫校

    • 都立武蔵高付属中学
    • 都立南多摩中学校
    • 都立三鷹中学校
    • 都立立川国際中学校
    • 都立桜修館中学校

    まとめとして

    最後に中学受験を通して得られるものとして納得した箇所を紹介する

    中学受験の価値は合格という結果にあるのではない。その価値は、過程にこそある。(中略)
    人生において、結果によってもたらされた金銭や地位や名声は失うことがあるけれど、過程によってもたらされた誇りは誰にも奪われない。誇りある心には何事にもくじけない高潔な精神が宿る。

    長い人生には、不幸にも金銭・地位・名誉などを失うことがある。しかし、登りつめた高みへの過程・道筋が分かっていれば、失われたものを取り戻すことはできるだろう。人が歩いた跡が道になるという。中学受験に限らず、何事かに挑戦する経験は結果はともあれ、何かしらの道をつくることに他ならないと考えられる。

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