朝日新聞の連載小説「春に散る(沢木耕太郎)」が2016年8月31日に最終回を迎えました。
これまでに、二度紹介したことがありました。
最初の記事を読み返していると、2015年4月1日から連載が始まったことが分かります。
もう、一年半近く、朝刊を心待ちに生活していたんですね。楽しかったです。
泊まりで旅行に出かけるときには、新聞配達所に電話をして旅行期間中の配達を止めてもらうのですが、必ずストックしてもらって、まとめて読むのが楽しみでした。
連載が終わって3日目、なんか「春に散る」のない新聞を読むのが苦痛になってきました。
もちろん、連載小説だけを読んでいたわけではなくて、スポーツ欄も社説も普通に読んでいたんです。
でも、いつもある場所に好きなモノがないっていう喪失感が大きくて、新聞自体を遠ざけてしまいたい、そんな心境なんです。
もう、朝日新聞をとり続ける理由もなくなりました。
喜んで受け取っていた液体洗剤は、買っても高くないことに、気づいてしまったんです。(笑)
最終回に震える
十一から十二ラウンドにかけての翔吾はリング上で無限に自由になれたのだろう。
たぶん、あの最後の二ラウンドで、翔吾は自由の向こうに行ったのだ。
自分たちの行けなかった世界に行き、見たことのない風景を見て、命がそこでしか生きられないという瞬間を味わった。
つまり本当のボクサーになったのだ・・・。
2016年8月31日の「春に散る」最終回は、見開きの半分を全部使った特別版でした。
読み応えが、ハンパなかったです。
やっぱり沢木耕太郎の言葉の選び方に震えちゃうんです・・・。
「命がそこでしか生きられないという瞬間」って、ひざポンものです。
「かけがえのない時間」とか「最高の体験」なんていう陳腐な表現はしないんですね。
風が吹くと、一昨日の雨にも耐え、散り残った花びらが空中に舞い上がり、陽光を浴びながらハラハラと降り注いでくる。
美しいな、と思った次の瞬間、すっと通行人の姿が消えて行くような気がして、胸に激しい痛みが走った。
立ち止まり、息をつくと、運河沿いにあるベンチを眼で捜した。幸い、誰も座っていないベンチが近くにあった。土手から降りて、そこに崩れるように座った。
あっ こういう感覚、分かるかも・・・。
翔吾の世界戦が終わって、広岡自身の命も閉じようとしている様子を描いた場面です。
胸に激しい痛みが走った瞬間は、「まわりにいる通行人の姿が、すっと消えていくような気がした」と表現されています。
読者は、広岡という人間を通して桜を見て、胸に痛みを感じる瞬間を「すっと通行人の姿が消えて行くような気がして」という一文からリアルに体験することができます。
一年半にわたって続いた、私の「命がそこでしか生きられないという瞬間」も、ついに終わってしまいました。
沢木耕太郎の昔の作品を読み返してみたい気分です。